林連絡官の講演録




ジャパニーズ ビーチプレス May 24June 6, 2002 Vol. 30 No. 782

 

 先日、4月11日の木曜午餐会で講演された海上自衛隊連絡幹部の二等海佐、林 秀樹氏の講演要旨を、午餐会便りの5月号で読ませていただき、非常に感動した。この講演の記録を一人でも多くの方に読んでいただきたいと思い、読後の涙も乾かぬうちに同会の柳井定人氏に連絡し、講演の原稿をいただいた。

 米海軍太平洋艦隊司令部に身を置く林氏の「えひめ丸」の体験談には、事件後の処理の各段階で、これまで報道さていたニュースからは想像もつかない複雑な問題があったこと、日米双方の関係者が両国間の関係を悪化させないよう、必死の努力をされたことなど、内部の人以外には語れない胸を打つエピソードが詰まっている。

 長文のため2回に分けるか、あるいは要約するかで迷ったが、いずれの場合も真意が完全に伝わらない可能性があると判断し、全文を掲載させていただくことにした。 

 

 

「えひめ丸事故をとおしての経験」

                                     米海軍太平洋艦隊司令部

          海上自衛隊連絡幹部

            二等海佐 林 秀樹

 

 時が経つのははやいもので、この原稿を書いている今、えひめ丸の事故が生起して、早一年が経過しました。最愛の家族を亡くした方々の心に刻まれた事故の傷跡が癒えるには長い時間が必要であるかもしれませんが、一年という区切りの時に当たって、この一年間のできごとと、その時々にとった私の行動等を顧みたいと思います。

 私は海上自衛隊から米海軍太平洋艦隊司令部に派遣された連絡幹部であり、ここハワイではただ一人の海上自衛官であります。本来の任務は、アジア太平洋地域の安定に寄与するための日米海上防衛協力、日米共同作戦、防衛力整備構想、各種共同演習等の計画策定、調整業務にあたることですが、平易な言葉を使えば、米海軍の中にあって唯一の日本人として日米の懸け橋になるということです。

 起きてはならない悲惨な事故が発生した直後、私の脳裏にひらめいたのは、「この事故を1995年の潜水艦『なだしお』事故の二の舞にしてはならない」ということでした。状況こそ異なれ、今回の事故は当時の海上自衛隊の事故にあまりに酷似していました。私は、あの痛ましい事故を通して海上自衛隊が得た貴重な教訓をここに生かすべきであると決意しました。

 事故当初は、被害者に対する同情論、米海軍に対する非難、中傷が渦巻いており、事故の責任は米海軍にあるとは言え、あまりにもマスコミの論調、世論は偏っていました。家族の悲痛な叫びがマスコミによって、また、政府によって増長されるにつれ、日米両国間の溝は深くなる一方であり、留まるところを知らないかに見えました。私は、米海軍司令部内の唯一の日本人として、事故直後の捜索救助活動について家族説明を行う際に専門用語の通訳等にあたることになりましたが、私が海上自衛官であることを知らない、また事故によって気が動転している家族からは厳しい叱責を受けたこともあります。私自身、この事故には直接何ら関与していない海上自衛官が如何なる立場で関与すべきであるのか?海上自衛隊までが言われなき非難の対象となってしまうのではないか?という疑問があったことは否定できません。事実、太平洋艦隊司令官フアーゴ海軍大将は、家族、マスコミに対して米海軍が話すときには是非私を通訳にと望んでおられた反面、「事故そのものに無関係である海上自衛官を矢面に立たせていいものか」と悩んでおられました。

 しかし最終的にはこの問いに対し、私は「日米両国の友好関係にとっての未曾有の危機となりつつあるこの事態を救えるのは、50年間ともに太平洋の安定のために努力してきた海上自衛隊しかない。ここはあえて火中の栗を拾っても、米海軍と海上自衛隊が一枚岩となって日米関係を土壇場でくい止めることが求められている時である」との答えを出し、東京の海幕防衛部に電話を入れました。「日米関係の正念場です。あえて火中の栗を拾うべきです」。防衛部のゴーサインはすぐ出ました。海自の制服を着た米海軍司令部幕僚。怒りに満ちた家族らから「どっちの味方か」となじられても、この日を境に以後11か月の間、この信念を貫くことを誓いました。

 

 司令部棟の一画にEMCC(えひめ丸コマンドセンター)が開設され、日本の宗教観や礼儀作法を私は教え続けました。謝罪特使のフアーロン海軍作戦副部長もその一人でした。米海軍ナンバー2の大将が、当時まだ「少佐」に過ぎなかった私に、「日本人に対する正しい謝罪の態度を教えて欲しい」と頭を下げられました。私が僭越ながらブリーフイングしている内容をフアーロン大将は一言も聞き漏らすことなくメモをとっておられました。2月26日の朝、日本へ向かう直前の米海軍機から副部長の緊急電話が入りました。「えひめ丸という言葉と大西(船長)という言葉の私の発音を直してくれ」。このころ、マスコミでは「土下座しろ」「米国政府は日本人の信条が理解出来ていない」等といった論評が渦巻いていました。しかし、私はこのフアーロン大将の真摯な姿勢に胸を打たれるとともに、ふと日本人として我が身を置き換えて考えた時、これが仮に海上自衛隊の潜水艦が東海沖で訓練中に付近を航行中の東南アジアの漁船に衝突、行方不明者を出してしまっていたとして、海上自衛隊ナンバー2が謝罪に行くとしたら、ここまで相手の国民感情を理解しようと努力して、たかだか少佐ごときの連絡幹部に頭を下げるだろうかと思うと、改めて米国民の懐の深さに深い感銘を受けました。フアーロン大将が総理官邸で森前総理の前に深々と頭を下げるシーンを私はテレビで見ていましたが、これほどの海軍高官が多くの日本国民が見ている前でここまで頭を下げて謝罪することがどれほど屈辱的で耐え難いことであるか、同じ海軍士官として痛いほど理解でき、流れ出る涙を禁じ得ることができませんでした。数日後、再びハワイに立ち寄られたフアーロン大将にお会いしましたが、私の手を握りしめ、「君のおかげで米国民を代表して心からの謝罪を示すことができた。感謝する」と言われました。私はただただ頭を下げ、「あなたのような高級将校を派遣して、全国民の前で謝罪させなければ、世論の鎮静化が図れなかったのは、ひとえに連絡幹部である私の不徳の致すところであるります」と謝ることしかできませんでした。

 そのころ、私の心中に渦巻いていたのは「日本人のエゴイズム」でありました。多くの心ないマスコミの方々にお話ししましたが、当時英国から東京に働きに来ていたルーシーさんという容姿端麗なお嬢さんが行方不明になるという事件がありました。英国から御両親も来日され、捜査への協力を依頼しておられましたが、結果として、日本人男性によって殺害されバラバラにされて埋められるという残念な結果となりました。その時に御両親は、警察の捜査、国民の捜査協力に感謝の言葉こそ述べられましたが、犯人に土下座や謝罪を求めることは一切ありませんでした。

 えひめ丸の事故において声高に米海軍の責任追及、謝罪のみを要求していた日本人の誰か一人でも、ルーシーさんの事件において英国民の心情を理解すべきとの意見を述べた者がいたでしょうか。事ほど左様に、日本人は自分が受け身になった場合には相手に過剰な要求をする一方で、立場が替わればまったく無頓着な人種であります。えひめ丸の事故ではこの日本人の甘えの醜さが浮き彫りになったと言えるでしょう。

 国際社会の常識からますます乖離していこうとしている日本。このままでは日米関係は修復不可能なほど傷ついてしまう。親日政策を打ち出したブッシュ政権の誕生間もないこの事故が、せっかくの親日政権に致命的な打撃をあたえてしまうことを懸念し、フアーゴ司令官に、再三にわたって「日本国内世論は無視してください。時間の経過とともに日本人は問題の神髄を忘れる人種です。それよりも米国内世論に目を向けてください。ブッシュ政権を支えている米国民の一人一人が反日感情を持つと政権が倒れます」と訴えました。米国内における反日感情を抑制するとともに、日本国内世論をうむを言わさず押さえつけ、将来に禍根を残さないよう終結させるには、このパールハーバーに日の丸と自衛艦旗を掲げた艦艇を入港させ、日本人である海上自衛隊のダイバーを米海軍ダイバーとともに海中に潜らせる必要がある。米海軍が如何に誠意を持って作業に臨んでも、日本人はそれを理解し、正しく評価することはあり得ない。それならば同じ日本人の同胞が共同で作業にあたり、米海軍が実施した作業の正当性を評価するならば、日本人が米海軍の作業を非難すると言うことは、ひいては同胞である海上自衛官に刃を向けることになる。「どうしても米海軍を過剰に非難したいのならば、まず同じ日本人である海上自衛官を斬り捨て、その屍を乗り越えてから非難せよ」というのが、米海軍を、ひいては日米関係を守るために私が出した方針でした。

 しかし、そこには大きな障害が待ち受けていました。潜水技術、装備の相違からくる安全上の問題、米海軍として面子等の観点から海上自衛隊の支援をまったく念頭に置いていない米海軍。事故自体にはまったく無関係であることから艦艇を海外に派遣する根拠がない海上自衛隊。相容れない両者を一つに結びつけるために、徹夜で、ワシントンの日本大使館、ハワイの太平洋艦隊司令部、東京の防衛庁本庁の間の画策を行う日が続きました。薄氷を踏む思いで、米海軍に対しては、「海上自衛隊は共同で作業を実施することによって米海軍の盾となる用意があり、事態の収拾にはこの方法しかあり得ない」と説得するとともに、海上自衛隊に対しては「米海軍が海上自衛隊の支援を得たいとの打診があり、近々にも支援要請が出される公算が高い」と伝え、やっとの思いで米海軍からの支援要請を取りつけ、海上自衛隊にも要請を受諾させました。一介の2等海佐ごときが大それたことをしたと思いますが、今にして振り返れば、私の画策はすべて上級司令部にもお見通しであり、黙認していてくれたのではないかと思います。米海軍、海上自衛隊ともに、上層部では日米関係のために同じ事を考えていたのかもしれません。

 海上自衛隊が派遣した、最新の潜水艦救難艦「ちはや」がパールハーバーに入港したのは8月20日の午後でした。岸壁に多くのマスコミ関係者が並ぶ中、整斉と入港してくる「ちはや」の艦首に日の丸が、艦尾には自衛艦旗が高々と掲げられていました。「ちはや」の姿を見るまでは、思い思いの取材をしていた日本のマスコミ陣も、その旗を見た瞬間、誰もが目頭を熱くし、声を詰まらせていました。私も、海上自衛隊に勤務して17年、これほど美しい艦艇、日の丸、自衛艦旗を見たことは初めてでありました。この時の感激、安堵感は一生忘れ得ぬものであり、日本国に対する愛国心を再認識した瞬間でした。当初、引き揚げ作業は早ければ8月下旬にも完了するとの見通しでありましたが、実際の作業は困難を極め、日一日と作業は長引き、「ちはや」の乗員130名も中にも、次第に焦燥感が高まってきました。終わりの見えない派遣と、出番を待ち、準備と訓練に明け暮れる毎日。その中で、一人の乗員が腹膜炎になるというアクシデントが生起しました。患者はただちに陸軍病院に搬入し、手術を受けることによって大事に至りませんでしたが、後日この乗員が退院後、「ちはや」艦長に直接「ハワイで大手術を受けることになってもいいから、どうか日本に送り返さないでくさださい」と申し入れてきました。私もその場にいましたが、その乗員は目に涙を浮かべ、「海上自衛隊を代表し、御家族のために、また日米両国の友好関係の維持のために派遣されたのに、目的を果たさずに帰ることはできません。」と訴えていました。この乗員の気持ちは、当時の乗員総員を代表していたのだと思います。技術的な困難さから、作業が遅れ気味になっており、いつ「ちはや」の出番になるか不安を抱えながらも、皆、任務を達成したいという気持ちだけで、何一つ不満も言わず準備作業、訓練に邁進していました。自らの任務を自覚して、任務を全うすることだけに集中した人間の美しさに、同じ自衛官ながら感動を覚えました。

 遺体の捜索活動が終わりに近づいた10月末、米海軍は民間船を借り上げ、鎮魂のために御家族を現場水域に案内しました。「えひめ丸」を吊り上げていた枠組みの黄色い姿がぼんやり海に浮かんでいたものの、「えひめ丸」の船体そのものは見えませんでした。その見えない船、御家族は必死で海中を探し、同船が西、つまり日本の方向を向いて海底に横たわっていることを説明すると、船上では泣き声がひときわ高くなり、海中に花が次々と手向けられました。

 やがて、現場水域を離れる時間になり、船が動こうとしたとき、御家族の一人が私を呼び、声を詰まらせながら、「台船の上で作業をしているダイバーたちに、お礼の言葉を伝えたい」と言われました。責任者の米海軍中佐に無線でメッセージを伝えると、台船上のダイバーから「皆さんの気持ちに応えるよう、全力を尽くします」と返事が来ました。その内容を私がマイクで御家族全員に伝えたときでした。誰からともなく、台船に向かって手を振りはじめました。それに応えて台船上のダイバーもいっせいに手を振ってきました。現場海域にいたみんなが泣きました。御家族、私、そして米海軍中佐をはじめ米海軍関係者全員もサングラスの下で涙をこぼしました。

 事故が起きたとき、家族の心は米海軍に対する怒りで一杯だったことでしょう。しかしながらそれから8か月、最愛の夫や息子をなくした悲しみは消えないものの、彼らの多くが米海軍に対して心を開いてきました。それは度重なる失敗や困難、問題に直面しても、米海軍が固い決意で乗り越え、およそ誰もが不可能と考えていた引き揚げ作業をやり遂げたからであります。米海軍は家族との約束を守ることだけを考え必死で最善を尽くしました。船内に入ったダイバーたちは、危険な環境であるにもかかわらず、素手で作業をし、また遺体を見つけると海中で合掌の後そっと触れました。

 その陰には、遺体に関する日本人の気持ちを理解しようとする米海軍関係者の切なる思いがありました。

 船内捜索では、皆様御存知の通り、8人までが発見されたものの、一人の生徒さんはどうしても発見することが出来ませんでした。米海軍が3週間強にわたって実施した潜水作業を終結し、海上自衛隊のダイバーによる最終確認に後の望みを託す時を迎えるということは、米海軍関係者にとって苦渋の決断ありました。彼らは行方不明者を自らの家族のように思って作業に当たってきました。そのことは、最後の一人となった家族の方に捜索終結を告げた次のような言葉に表れています。

 「今まで全力で捜索してきましたが、残念ながらご子息の御遺体を発見することはできませんでした。米海軍としても非常に残念な結果であると同時に、苦渋の決断であります。ここにこれまで我々米海軍の作業を信じ、御理解をいただいたことに対して心から感謝いたします。ダイバー一人一人は、皆、自分の子供、弟のように思って潜ってきました。我々は絶対見つかるという希望と確信をもっていたので、本当に残念な結果です。しかしながら我々の辛さに比べたら、御家族のお悲しみはいかほどかとお察しいたします。米海軍はこれから海上自衛隊に我々が最後まで失わなかった希望を託します。『ちはや』艦長は同じ海軍士官として尊敬する人物です。これから米海軍は、彼が指揮する潜水作業を支援する立場に回りますが、これまで潜水作業を実施してきた以上に、100%海上自衛隊を支援します。我々は何としても御家族の元に返してあげたいのです。」

 この言葉の通訳に当たった時、これ以上の辛さはないと思いましたが、この8日後にもっと断腸の思いがする瞬間が待っていました。

 米海軍から引き継いだ「ちはや」のダイバーが、船内の最終確認潜水を実施したわけですが、実施期間の決定には細心の注意を払いました。それまで米海軍が実施してきた潜水作業が不十分であったとの印象を与えないためにも長期間の作業は逆効果ですし、あまりに短期間であれば、確認作業そのものの信憑性が薄れます。その両者を満足する期間として私が決定したのが8日間でありました。その最後の日のことは今想い出しても涙を禁じ得ません。

 当日は、御家族にとっても私にとっても心を静めることができない落ち着かない一日であったと思います。どんな言葉で伝えようと、御家族の心の苦しみを和らげることなどできるわけがないことはよく判っていました。自分の気持ちが整理できないまま、一睡もできないうちに夜が明けて、ついにその日を迎えることになりました。「発見されました」という報告ができたらどれほどか救われるかと電話が鳴るたびに一喜一憂していました。

 しかし、「ちはや」からの「最後のダイバーが水面に上がった」との連絡を受け、ついに終わりの時が来ました。

 ホテルの会議室に向かう途中、私の頭の中は真っ白でになり、9か月前の事故発生当時の混乱、家族来布時に罵声を浴びせられたこと、フアーロン大将に日本の作法を教えたこと、審問委員会、「ちはや」派遣に至る過程、長く不安な吊り上げ作業、「ちはや」のパールハーバー入港等が次々に無秩序に想い出されてきて、考えがまとまらないままにホテルの部屋に入りました。

 私が、真心の声を精一杯伝えようと思い、お話しした内容は次の通りです。

 「これまであらゆる可能性について考えられるすべての捜索を実施しましたが、手がかりを得ることはできませんでした。本日午後、最後のダイバーが水面に上がってきましたが、その瞬間をもって「ちはや」艦長は苦渋の決断を下すに至りました。

 最後に、先週、「ちはや」にお越しになった際に「ちはや」乗員にいただいた白いバラの花束と、昨日お預かりしたクッキーは、御子息の部屋のロッカーにいれ、御子息がいつでも花を見て御両親のことを想い出したり、クッキーを食べられるようにロッカーのドアは開けておきました。」

 これだけの言葉を伝えるのに、最後は胸が締め付けられ、言葉になりませんでした。16年間大切に育ててきた男の子を、その子が17歳になった2日後に失ってしまった夫婦に、このような残酷な言葉をかけなければならない辛さ、私にとっても御子息は手が届かない帰らぬ人となってしまったという気持ち、4か月に及ぶ終わりの見えない作業に黙々と専念してくれた「ちはや」の乗員に対する感謝の気持ちが一緒になって言葉になりませんでした。

 同席していた、米海軍の引き揚げ作業総括責任者は「御両親のお気持ちを察すると余りあるものがありますが、これまで米海軍のダイバーが全力を尽くしたことを御理解いただき本当にありがとうございました」と涙ながらに話されました。

 私の17年間の自衛隊生活を凝縮したよりも更に凄まじい体験をした1年間でありましたが、その全てを語り尽くすことはとてもできませんし、また、生涯私だけの胸に秘めておくべきことも多くありました。

 今振り返ると「溝は深すぎる」と半ば諦めかけながらも、私が家族と米海軍との接点であり続けることができたのは、日本と米国という世界でも類を見ない強い友好の絆で結ばれた両国の将来にこの事故が暗い影を落とすことがないようにというただそれだけの思いでした。犠牲者の家族のために、誠意を持って対応しようとしている米海軍のために、日米両国政府のために、両国民の感情のために、自分は何ができるのであろうか。日米間の文化、歴史、制度、習慣の相違という大きな壁に直面しながらこの質問を自問自答する毎日でした。

 昨年9月のテロ事件の反応にも一部見られたとおり、日米間には価値観の相違、感じ方の違いが多くあります。歴史認識もしばしば食い違いますし、時にはその溝は越えがたくさえ思われます。しかし、そうした懸隔があっても、日米は同盟国として長くつきあわねばなりません。そのために必要なのは、何よりも共通の体験を重ねることだと思います。困難や問題を共に乗り越えて初めて、共感が生まれ、信頼が育まれていくものであると信じています。

 しかし、最終的には私を毎日駆り立てたのは「人が人を愛し、人が人の死を悲しむ気持ちに変わりはない」という洋の東西、時代の新旧を問わず、生ある物すべてに共通する真理でした。

 これまで述べてきましたように、米海軍は人として、組織としてあるべき姿を追求し、その道が如何に険しいものであろうと、決して挫折することなく、万難を排し、あらゆる困難な状況を乗り越え、御家族と交わした「引き揚げます」との約束を果たすために、最大限の努力を傾注しました。

 ひたむきな努力を続ける米海軍の姿も、最愛の家族を失い、怒り、悲しみ、疲労で混乱している御家族の姿も、どちらも真実の姿でした。また、将来の姿を考えた時に、仮に、溝ができたまま、両者が未来永劫交わることがないとしても、それも真実の姿でしょう。しかし、両者の間に身を投じ、お互いに相手のことを理解しあい、誠意を示しあい、歩み寄れる部分は歩み寄ることも真実の姿でしょう。

 理不尽きわまりない事故によって命を落とした「えひめ丸」乗員の家族と引き揚げ作業を担当した米海軍、また米海軍の陰になって支援した海上自衛隊の間に深い絆が生まれたとすれば、それは共に悲しみ、悩み、苦しみ、ともに汗を流すという時を共有した結果に違いありません。

 私がこの1年間に考え、実行に移したことが正しかったか、誤っていたかは、私が判断することでも、米海軍や御家族の皆様が判断されることでもなく、今から10年、50年、100年の時が経った後に、歴史が判断することでしょう。しかしながら、今静かにこの1年間を振り返った時、真実に背かず、常に全ての人に公平に、真心を持って、持ちうる自己の最大限の能力で、事態の収拾にあたったという自信には一点の翳りはありません。

 最後になりましたが、この1年間、えひめ丸の事後対応に没頭している私にお寄せいただきました地元の皆様方の並々ならぬ御理解、御支援に心より感謝申し上げますとともに、今後とも、任務を全うするまで、変わらぬ御指導、御鞭撻を賜りますようお願い申し上げます。

 

 

 林さんのご講演と木曜午餐会について

                    柳井定人

 林さんのご講演の日、林さんのお母さんも会場に来られました。

 私は講演に先立って、林さんのご略歴をご紹介した後、こんなことを申し上げました。「人一倍親孝行の林さんはアイエアに、お母さんと2人で住んでおられます。えひめ丸事件のことが連日TV等で報じられる最中に、私はお母さんにお電話しました。『息子は時折ちょっと下着を取りにかえるだけです』とはなされました。

 今まで起きたこともない事故の、こんな大事なとき、どうか息子が落ち度なく職責を果たしてくれるよう、ひたすら祈り続け、一人でどれだけ胸を痛めておられたことか、又、林さんは林さんで海外に来て間もないとき、一人ぼっちで家におられる母に、余計な心配をかけないよう、どれだけ気を遣われたことか、私はずっと林さんとお母さんの苦衷の心情をお察し続けていました」と挨拶しました。

 そのあと、林さんは講演にはいられ、冒頭「もう、柳井さんがみんな言われたので、話すことはありません」と口を切られました。その後、ビッシリ講演された1時間15分、時に目をうるまされ、時に諄々と語られ、息つく間もない感動の連続でした。

 2月9日ハワイ沖で、米潜水艦の理不尽な行動によって引き起こされた事件にかかわった一人の連絡官の苦闘の一年間の姿について、日本国民、遺族の方、日本米国海軍のそれぞれの立場から尚且つ求められるところはあるかも知れませんが、林さんの事件に立ち向かう信念、心情、日夜最善を尽くされた長い長い一年間を思う時、異国に住み、日本人である午餐会の会員は胸が熱くなり深い感動に侵りました。

 

 次に講演会の主催者、木曜午餐会のことについて。

木曜午餐会の創立は1918年で今年は創立84周年に当たります。

この会の生みの親は、当時のホノルル駐在の日本国総領事、諸井六郎氏で教育を高め、親睦を深めるために毎週一回の集会の開催を提案され「木曜午餐会」と名付けられました。

爾来、太平洋戦争中は止むなく中絶されましたが、戦後継続され、初代の幹事は安森脇太郎氏、2代は築山精之助氏、3代は金武朝起氏で1993年に金武アイリーン夫人が4代の幹事を引き継ぎ現在に至っています。

毎週一回の講師の方々は、ホノルル日本国総領事、各領事、自衛隊連絡官、大学教授、弁護士、医者、銀行、商社等各界、会員の方々で講演料は1セントもありませんが、創立84周年の歴史の重みと、一生青春、一生勉強を合い言葉に参集する会員の熱意によって、あらゆる方面の講師の方々が御支援下さっています。

会場はYMCAヌアヌ支部で講演時間は正午から午後1時まで。会員は45〜70才が多く(最年長は94才)男女で会員数65名です。


 林さんのお母さんのご健勝と林さんのご発展を心からお祈りいたします。